佐藤航陽のブログ

Month: 6月 2014

ロジカルシンキングの弱点を考えてみた:ロジックを超えたロジックの話


ロジカルシンキングについて日頃から思っていた疑問をサクッと書いてみました。Wikipedia先生に聞いてみると、ロジカルシンキング(論理的思考)とは、

一貫していて筋が通っている考え方、あるいは説明の仕方のこと

ビジネス書では、

物事を体系的にとらえて全体像を把握し、内容を論理的にまとめて的確に伝える技術

なんて説明されてたりします(定義は議論があるところですが、ここでは触れません)

現代社会の多くの意思決定において、ロジカルシンキングはとても大事です。例えば、社内で新規事業をする時に担当者がプレゼンする場合や、経営者が投資家に説明する場合などです。

筋が通らない矛盾があれば却下されるでしょうし、大多数が 納得できるようなロジカルな説明ができれば、意思決定はスムーズに進みます。

このロジカルシンキングの弱点は、他人を説得する際には絶大な力を発揮する一方で、物事の成否を見極めるには、それほど役に立たない点だと思います。他人を説得する上では有効だが、自分がうまくいくかを検討する際には頼りにならない、という何とも不思議なツールのように感じます。

「他人も自分も納得できる ≒ 成功の可能性が高い」という一見するとスルーしてしまいそうな組み合わせが、問題をややこしくしてるような気がしていました。

注目したいのは、ロジカルシンキングの説明の中でよく出てくる「体系的」や「全体像を把握」といった箇所です。

人間は「全体像を把握」したり、物事を「正確に認識」したりすることが本当にできるのか?ここらへんがひっかかります。

よくある新規事業を例に考えてみます。

ある新規事業の例で考えてみる

仮に、新規事業を検討している担当者が社内でプレゼンテーションをするとしましょう。海外ではその市場は注目されており、まだ日本では誰も手がけていないビジネスだとします。

担当者は、そのビジネスの可能性を、市場の成長性・海外プレイヤーの成長率・自社が参入した場合の競争優位性などを材料に、経営陣にプレゼンを実施します。経営陣はその説明をもとに自分達でも成功角度を見積もり参入の意思決定を行います。

もし、この時に同じことを検討している会社が100社あったらどうでしょう?

市場は一瞬で競争過剰に陥り値下げ合戦に巻き込まれて充分な利益が出せなくなるでしょう。ただ、今現在に誰がどんな事を考えて何の準備をしているかをリアルタイムで知ることは、世界中を監視できる立場にないと不可能です。この時点で、競争環境を判断する材料が抜け落ちていることになります。

さらに、ロジカルかどうかの ” 判断 ” はその母集団のリテラシーに依存します。例えば、意思決定を行う経営陣の中に「大手企業が来月に参入する」という具体的な情報をキャッチできる立場の人物がいれば、計画を再検討するように言うかもしれません。

つまり、構築できる「ロジック」はその人がかき集めれられる情報の範囲に依存し、それを見て「納得」するかどうかは意思決定を行う母集団の背景知識に依存してしまう、という事になります。

論理的思考の問題点は、人間が自分達が認識できる現実の範囲を「全体像」と捉えてしまう点にあります(実際はそれが「一部」であったとしても)。

ロジックを構築する土台となる材料自体が不正確さを含んでしまっているので、しばしば人間の将来に対する認識はあっさり裏切られてしまいます。

周囲を納得させるロジックを形成するための「思考」と、それがうまく行くかを判断するための「思考」は分けて考える必要がありますが、現状では意思決定においてこの2つがごっちゃになってしまっている点に問題があるような気がしますね。

自分の認識のほうを疑ってみる

自分の過去の意思決定にしても、とてもその時点ではロジカルとは言えないものが多いです。例えば、こんな投資です。

  • (当時)まったく経験が無いにも関わらずグローバル展開を始める
  • (当時)広告主がほとんど存在しないAndroidにフォーカスする

これらはその時点では事例も資料も示せないので「納得」できるロジックを示すことは難しかったのですが、時間の経過と共に当初は認識していなかった事が明らかになっていき、結果として ”後付け” の納得感が形成されていきました。自分がやっている事は変わらないのですが、”ロジカルさ” のほうが後から付いて来たような印象です。

これを経験した時に、日常的に行われている意思決定プロセスには何か欠陥があるんじゃないか?と疑問を感じるようになりました。

それまでは自分の認識をもとに論理的な筋道を作っていましたが、そもそも自分の認識はそんなに信用できるものなのか、というよりも、人間に現実を正しく認識する能力はあるのか、を改めて考えてみるようになりました。

そこで、こんな仮説を立ててみました。

  1. 社会は、人間が現実を正確に認識でき、論理的に説明できることを前提に作られている
  2. しかし、現実の複雑さは人間の理解力や認識能力を常に超えている
  3. そのため、人間の認識は何度も裏切られるが、後付けで合理性を作ることで人間は現実を理解できることにしてきた(そして、②に戻る)

もしこれが正しければ、現段階で得られる情報は不完全であり、自分自身の認識も誤っている可能性を常に考慮に入れた上で、思考する必要があります。

動き出せば、新しい情報が手に入り「認識」が常時アップデートされるはずです。むしろ、限定的な情報や認識しか持ち得ない開始前の段階で、完璧に矛盾の無いロジックを構築できるほうが不自然と言えます。

そのため、”人間の認識には限界があり、そこから作り出される「ロジック」にも限界がある” ということをまず前提とします。そして、将来的に新しい認識が得られるであろうことを考慮に入れた上で、一定の論理的な矛盾や不確実性を敢えて許容しながら、現在のロジックを構築します。

つまり、現在ではなく将来を起点にロジックを作ろうとするので、その時点での ”納得感” はある程度犠牲にする、という考え方です(どれぐらい犠牲にするかは個人差があると思いますが)。

これを『ロジックを超えたロジック』と勝手に呼び、今も頭の隅に置くようにしています。「自分が現実を正しく認識しているとは限らない」という自分への戒めみたいなものです。なんだか無限ループにおちいりそうな話ですね。。。笑

人間の理性の限界を指摘した人達

同じようなことを考えてる人は他にいないか調べてみましたが、やっぱりたくさんいますね。もう何十年も前にフリードリヒ・ハイエクというノーベル賞を受賞した経済学者が『自生的秩序』でこの事を指摘していました。超簡単に言うと、

人間の合理性には限界があり、将来を正確に予想したり計画したりできると思うのは理性の傲慢である

とする考え方です。

これはかつて一部のエリートが社会や経済を正確に設計する事ができるという考え(いわゆる全体主義や計画経済)を痛烈に批判した時に使われました。実は、この考え方は起業家のスピーチにも良く登場します。

例えば、TwitterのCEOが卒業生に向けたスピーチでは下記のように語っています。

人は誰も自分にどんな可能性があるか、社会にどんな影響を与えるかなどと予想することも計画することもできない。物事の意味は、事後に他者が決めるもの。勇敢な選択をして、賭けに出て、とにかくやってみれば、世の中に影響を与えることになる。

スティーブ・ジョブズの有名なスピーチの『connecting the dots』の話も、同じ事を語っています。

大学時代に先を見て『点を繋げる』ということは不可能でした。しかし、10年後に振り返ってみると、実ははっきりとしているのです。繰り返します。先を見て『点を繋げる』ことはできない。できるのは、過去を振り返って『点を繋げる』ことだけなんです。だから将来、その点が繋がることを信じなくてはならない。

ロジカル過ぎると選択肢が狭まるかも

以前に書いたブログにも通じる話ですが、ビジネスではなく、人生の選択をロジックに頼ってしまうと、選択肢を狭めてしまう危険性があるなーとよく思います。

論理的思考は手元にある過去の情報を組み合わせて筋道を立てる作業と言えます。これまで見てきたように、正確な認識がそもそも難しい現在や未来に対してはうまく機能しない場合が多いです。

現在の選択も論理に頼ってしまえば、過去の認識が作り出したパターンをなぞるだけの将来になってしまいかねません。

「認識」とは、自分が今いる階数のようなものだといつも感じています。2階から見える景色を前提にあれこれ議論するよりも、早く50階に行くエレベーターを見つけたほうが良さそうです。50階であれば2階では見えなかった様々な景色がきっと見られるでしょうし、そこからは全く別の答えが導き出せる可能性があります。2階から見たら「海」だと思い込んでいたものは、50階から見たらただの「湖」であることがわかるかもしれません。

ただ、このエレベーターがどこにあるかは誰も教えてくれないし、探してみないとなかなか見つからない、そんなモノのように感じています。

個人的には、限られた認識をもとにロジックの緻密さを詰めるよりも、認識を広げることに最大限の努力をしたほうが近道だったことが多い気がします

実は「あべこべ」なことが多い現実

理性の限界を認識した上で意思決定するとなると難しく聞こえますが、世の中を眺めてみると「あべこべ」なことが多いです。

例えば、スタートアップへの投資を行っている『Ycombinator』創業者ポール・グレアムは自著で、「どのスタートアップが大成功するかなんて誰にもわからない」と言い放ち、一定の基準を超えたスタートアップには等しく投資を実行しています。その中から、『Airbnb』や『Dropbox』のような1兆円規模のメガベンチャーを輩出します。

普通、自分がうまくいくと確証が得られたからこそ投資をしますよね。先見の明に自信がある賢い人ならなおさらです。しかし、グレアムは「将来を正確に予想することは誰にもできない」という前提の上で、自分も例外扱いしませんでした。

つまり、グレアムは自分も認識できない可能性に投資することでリターンを得ている人と言えます。

一方で、長年の勘と経験をもとに、事業計画の妥当性と企業の成長性を自分達が納得いくまで数ヶ月も議論して ”ロジカル” に投資決定をする多くの人が、グレアムのリターンに届かないのは、また何とも「あべこべ」な話です。

ITや株式投資などの物理的な制約を受けにくいビジネスは上位1%が全体の99%の利益を稼ぎだす非対称性を持つ傾向が強いです。グレアムはここに潜む矛盾をうまく突いています。まるで他人のロジックのさらに向こう側にロジックを構築しているようにも見えますね。

見渡せば、一貫して論理的に機能しているように見える社会も、様々な矛盾を抱えながら回っている事が本当に多いなと感じます。

ロジカルシンキングは説得ツールと割り切る

現在の意思決定プロセスにおける問題は、他人を納得させるための技術が、いつの間にか意思決定をする上での「判断軸」としての役割を期待されてしまった事にあると思います。

ロジカルシンキングは他人を説得するための手段としては非常に優れたツールと言えますが、物事の成否を見極めたり将来の可能性を探るための手段としては少々荷が重いなと私は感じます。

ふと、科学がまだ充分に発達していなかった頃は、人間は今よりも「世界は解らないことだらけである」ということを深く認識していたのではないかと思いました。文明の発達で、人類が世の中を「理解できる場所」にしていった結果、論理を拠り所に物事を考えるようになっていき、理解できないものや不確実なものを意識の外に追いやっていくようになったのだと勝手に想像してしまいました。

私は自分の認識がしばしば裏切られるのを経験するたびに、「まだまだ現実というのは複雑でわからんもんだな〜」と感じます。今後はIoTや人工知能などのテクノロジーの発達で、人間が現実を “正確に” 認識できる日が来るのかもしれませんね。

人が、自分はなぜ今のような人生を歩んでいるのかと考えたときに、単なる偶然の連続と捉えるのか、自分の「認識」にその要因を求めるかは、最終的には個人差があるような気がします。

これまでの人生がうまくいってると考えてる場合は認識を疑う必要はないですし、あんまりうまくいってないなーと感じる場合は認識を疑ってみたりするかもしれません。

認識というのは、客観的に見つめようと努力しても主観的な感覚とは切り離せない、なかなか難しい問題だなーとしみじみ感じますね。

 

 


ロボットと所得格差と共有経済(シェアリングエコノミー)- 民間が作る新しいセーフティーネットの可能性


ブログを毎月書くのは難しいですね、毎日なんて想像もできません。

半年前にこんなブログを書きましたが、2014年になって社会構造が激的に変わってきてるなーと実感してます。もう少し踏み込んで書いてみたいと思います。

ロボットの普及で労働が減少する?

ここ1年でよく話題に出るのがロボティクスの進歩です。ドローンなどに代表されるロボットが本格的に社会に普及すると人間は仕事を奪われてしまうんじゃない?とそんな不安がアメリカを中心に巻き起こっています。東京ではまだ遠い未来感が満載ですが、GoogleやAmazonがいるアメリカではまんざらでも無い雰囲気です。

Googleは最近ではロボット開発ベンチャーやハードウェア系の企業を買収しまくっており、中には「Boston Dynamics」や「Skybox」のような軍事利用が可能な企業も手中におさめ、ただのネット企業とは言えない領域に足を突っ込んできています。

Boston Dynamics社の四足ロボット(YouTube公式アカウントより)

Boston Dynamics社の四足ロボット(YouTube公式アカウントより)

Amazon創業者は倉庫で1日24キロも社員を歩かせる、人をまるでロボットのように扱う経営者として欧州で酷評されていましたが、彼らが本当に経営努力によってロボットによる自動化を進めていくと倉庫で働く人達は職を失ってしまうかもしれません。

これらは非常に難しい問題で、ロボットのおかげ経営の効率化が計られ労働環境も改善される一方で、人力で行われる多くの仕事が不要になってしまいます。産業革命時にラッダイト運動なんてものがありましたが、これの現代版もあり得る展開になってきたようです。

テクノロジーの進歩が格差の引き金に

ロボティクスの発達とセットで、今後テクノロジーの進歩により所得格差が広がり、格差が固定化されるのでは?という議論も出ています。確かにロボットによる自動化がどんどん進めば、一部の仕組みを作る特殊技能を持つ人を除いて、単純作業の仕事はどんどんシステムに代替されていくのは確実な流れと言えます

アメリカでは、Googleの社員通勤専用のバスに対して住民が抗議活動がおこってましたが、これはIT企業で働く裕福なエンジニアの移住にともなって現地の物価や土地の値段が急騰したことに対する不満によるものでした。

消費者が便利なサービスに流れていくのは当然ですが、機械に仕事を奪われてしまう側には死活問題です。こういったテクノロジーの発達によって短期的に所得が減少すると予想されているのは、先進国のミドルクラスと言われる層です。

1988年から2008年までの世界の収入増加率(BUSINESS INSIDERより引用)

上記グラフは1988年から2008年までの所得層ごとの収入増加率をまとめたものです。一部の富裕層の所得増加が全体のGDPを引き上げているため豊かになっていると思われがちですが、むしろ先進国の平均的な家庭では所得は増えていないどころか、減ってるようです。リーマン・ショック後の数字はこのグラフに含まれていないので、現在はミドルクラスの所得増加率はさらに凹んでいるかもしれません。

そして、税金が貧困層にだけ使われていて自分達に使われていないということに不満を持った富裕層が独立して新たな自治体を運営する動きも話題になってます。当然、富裕層が消えた自治体の税収は激減し、そこから捻出される教育予算も減らされてしまうでしょう。


ちょっと前にこんなツイートをしましたが、本人の努力次第で拡大する格差は歓迎すべきですが、次世代にまでその格差が引き継がれるとなると、これは深刻な問題です。特に教育は個人の人生を決定する重要な要因で、子供が受ける「教育の質」が生まれた家庭の所得に依存してくるとますます「格差の固定化」につながりやすくなるでしょう。

この流れが加速すると、どの所得層に生まれたかで個人の人生がほぼ決まってしまい、所得(お金)は形を変えた『身分』に成りかねません(既にそれに近いですが…)。個々人の話としては『生まれた環境を嘆かずに最善の努力をすべし』という以上の答えはきっとありませんが、客観的な「現象」として把握しておきがなら見て見ぬふりをすることはまた別の話です。

社会的に成功した人物が「人生がうまくいく教訓」を他の人に語るときに、私はよく複雑な気持ちに駆られます。素晴らしい才能と勇気に感動する一方で、それらの話には自分が生まれた環境などの『外部要因』は考慮に入れられていないことが多いためです。世界中の成功した経営者やビジネスマンの生い立ちを聞いても、かなり似た教育水準・所得水準で育っていたことは偶然ではないのでしょうね。

労働が減少しても生活水準を下げないためには?

こういう話題が続くと『技術は進歩しないほうが良いんじゃない?』と思ってしまいますが、進化の流れは性質上「不可逆」ですのでなかなか難しいですよね、人間は便利なものを見つけると手放せない生き物ですから。

では、テクノロジーの進化で労働が一時的に減少するとしたら、どういう対策があるでしょうか?

考えられる対策のひとつに、労働が減少しても生活レベルが下がらない社会インフラを構築するという手があります具体的には「所得(お金)の必要性を、労働の減少と比例して引き下げる」というアプローチです。

仕事が機械に奪われても、お金を稼ぐ必要性も減らせばプラスマイナス=ゼロです。かつ、生活レベルも下げなくて済むのなら、これまで労働に当てていた時間を子供の教育などに使う事もできます。

鍵は、”ハイパーコネクティビティ(Hyper-connectivity)”にあると考えています。

ハイパーコネクティビティとは人と人、人とモノ、モノとモノがネットを通して完全に繋がった状態を指します。Intertnet of Things(モノのインターネット化)とともに社会はこの状態に近づきつつあると言われています。

完全にオンライン上であらゆる情報・人・物が共有されているこの状態を活用すれば、これらの労働減少や格差問題は和らげられる可能性があります。具体的には共通経済(シェアリングエコノミー)を活用します。

共有経済(シェアリングエコノミー)の活用

もともと現代社会は「情報の非対称」を前提に作られています。情報が偏って存在し、それぞれがリアルタイムで完全に情報共有をできないことを前提に、代理人や仲介者を「ハブ」として全体を機能させてきました。必然的に ”力” は中央のハブに集まるようになります。現代で大きな影響力を持つ組織を眺めても、このハブの役割を担ってきたことがわかりますね(政府・国会・商社・銀行・広告代理店・卸など)。

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ただ、コネクティビティがさらに進むと、オンライン上で人と情報とモノが「直接」かつ「常に」つながっている状態が実現します。そうすると中央にハブが存在する必然性はなくなり、全体が分散したネットワークに変わっていくことが予想されます

インターネットは「距離的な制約」と「時間的な制約」をふっ飛ばして、情報を瞬時に伝達するテクノロジーではあるので、むしろネット本来の力がここに来てようやく発揮されてきたと言ったほうが適切かもしれません。

共有経済(シェアリングエコノミー)は個人が余ったリソースを直接的に共有しあう事で、コストを大幅に削減できるメリットがありますネットが生活のあらゆる所に浸透してきたおかげで、共有できる範囲が地球全体に広がり、巨大な経済として機能しはじめています。

AirbnbやZipcarに見る共有経済の成功例

IT業界の人には説明不要ですが、共有経済の成功例としてはAirbnb、Zipcarなどが有名です。

Airbnbは個人の住居の空きスペースを有効活用したい人と、安価に旅先の宿を確保したい人をつなげるサービスです。いわば個人間で「空間」を共有するサービスです。2008年に設立された企業ですが、既に企業価値は1兆円に近づいており、世界で1000万人以上が利用する巨大サービスになっています。

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もうひとつカーシェアリングで有名なZipcarです。車を所有するのではなく、使いたい時だけメンバーで使いまわします。共同所有・共同利用の概念です。車の維持費やガソリン代などはバカにならないコストです。車も一家に一台所有する “モノ” から使いたいときだけ利用する “サービス” に移っていくのでしょう。この会社は2011年にナスダックに上場しました。

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昔から再利用・共同利用などは一般的でしたが、ネットの普及でリアルタイムかつ大規模にこういった事がおこなえるようになったのは大きな進歩ですね。

発展途上国の駐在員の話

昔、途上国に駐在員として滞在したことのある人から興味深い話を聞きました。日本の数分の一のGDPである発展途上国のコミュニティの生活を見て驚いたことがあったそうです。それは労働時間が日本人よりもずっと少ないにもかかわらず、生活水準は日本人よりも高い点です。

理由は簡単で、町全体でモノやリソースをまるで家族のように共有していたため、個々人の労働所得が低くても生活レベルを高く保っていられたようです。物は貸したり上げたり交換したり、リソースはお互いに共有するのが普通になっており、それはまるで町全体が市場経済とは切り離された「お金が介在しない独自の経済」を成り立たせていたようなものです

その結果、名目上のGDPでの ”豊かさ” と、実態としての ”豊かさ” に大きな乖離が発生していたのだと思われます。数字には見えない ”貧しさ” が目立ってきた先進国とは真逆の現象ですね。

都市部ではこういったことは難しいですが、一方、スマホの本格的な普及でオンライン上では知人同士がLINEやFacebookを通して常につながっている状態にあります。かつての相互補助の仕組みは別の形で応用できるのでは?と思えてきます。

社会のセーフティーネットとしての役割

話題のピケティの『21世紀の資本論』ではグローバル累進課税を課して格差拡大を抑えるようなアイディアが出ていましたが、もうそろそろ「生活」と「お金」を分けて考えてみてもいいんじゃないかな、と個人的には思っています。

人類全体の歴史から考えると、「生活をすること」と「お金を稼ぐこと」がほぼイコールに結びついたのは産業革命以降の直近300年ほどの話で、ちょうど産業の中心が農業から工業に移るタイミングで定着したスタイルです。今また産業の中心が情報通信などの第四次産業に移行しつつあり、かつての「あたりまえ」は大きく変化するタイミングにあります。

そこで考え方を変えて、テクノロジーの進歩によって労働が減少し所得格差が拡大するのであれば、逆にそのテクノロジーを格差縮小のための社会的セーフティーネットの構築に役立て、労働所得(お金)への依存度を下げていく手があります。これらを変化に敏感な市場経済で実施することで、格差拡大作用と格差縮小作用のタイムラグを最小限に抑えます。

これはいわば行政が行ってきた「富の再分配」を、市場経済の中で機能させてしまおうというアプローチです。現パラダイムの成功事例である「行政」が、新パラダイムに移りつつあるこのタイミングで「富の公平な再分配」に苦戦するのは、当然と言えば当然なのかもしれません。

格差問題とセットでベーシックインカムの議論がありますが、税金からそのコストを負担しようと思うと、負担が増える富裕層の反発にあう事が予測されます。また財源を税金に依存する公共サービスは改善のモチベーションが民間に比べて低いという弱点があります。

反対に、財源を営業利益によってまかない、国境にも縛られない民間企業はビジネスとして独力で持続可能なインフラを構築することもできます。競争に晒され続けるため改善を続けなければいけないという ”競争原理” も働きます。これに行政が持つ「公益性」をうまく融合させられれば、民間でも優れた社会インフラを構築できるとは思いますね。

そのためには、①資本主義の持つ欲望のエネルギー、②行政の持つ公益性、③市場競争による形骸化抑止、④営業利益による持続可能性、この4つの要因にさらに⑤ IT の持つコストメリット&スケーラビリティが必須要因になるでしょう。

その先には、ポスト資本主義社会のヒントがありそうですが、それはまた別の機会にまとめてみたいと思います。

理論と実践のバランス

SPIKE(スパイク)というプロジェクトを作った目的は「テクノロジーでお金の在り方を変え、地球上のあらゆる “価値” をリアルタイムで交換できるようにする」ことであると同時に、政治では実現できないセーフティーネットを民間の手によって構築するという試みでもあります。

考えられるアプローチは無数にありますが、物やリソースを個人間で共有しあうことで生活に必要なコストをどこまで下げられるのかを追求したいと思います。超単純化すれば、全体の労働収入が3分の2になっても、生活に必要なコストを半分に抑えられればむしろ生活水準は上がります

例えば、車は購入せずにカーシェアリングで必要な時にだけ借りて、不要なものは知人間で売ったり貸したり交換し、めったに使わない高価な物は共同で購入し共同で所有。スペースが余ってるなら誰かに貸し出すか、シェアハウスにする。時間やリソースが余ってるなら誰かの仕事を手伝って、代わりに飯でもおごってもらうなんてのもありです。

こうやって見ていくと、有効活用されていない「価値」は身の回りに溢れていますね。

敢えてサービスを知人間に限定したのは、「労働減少のリスク」を「人のつながり」によってヘッジしたかったからです。言い換えれば、「人のつながり」を失っていなければ、労働が減少しても個人がどうにか生きていけるようにしたかったからです。昔はネットは人間関係を希薄にすると言われていましたが、これからはむしろ「人のつながり」こそが文字通り ”個人の資産” に変わると思っています。本質を突き詰めれば人間は結局そこに辿り着く気がします。

新しい商品の需要を喚起し、大量生産と大量消費を繰り返すライフスタイルはある意味では「資本」の都合な側面が少くなくありません。利益と株価を右肩上がりに伸ばし続け、経済全体を成長させ続けることが金融資本主義では必須なためです。そこで発生する ”エネルギー” が現代社会の基盤を作ってくれましたが、最近は壁にぶち当たっている感があるのも事実です。

突き詰めれば、製品や市場と同様に、経済システムそのものにも「競争」や「多様性」があったほうがずっと自然です。評価経済や共有経済のように、複数の異なるルールの「経済」が並列で存在し、個人がどの経済システムをメインに生きていくかを自由に選択できるようになれば、構造的に格差は固定化されにくくなります(不公平な経済システムからは人がいなくなるため)。

政治や産業などのあらゆる領域が、競争を活用した「抑制と均衡」によって健全性を担保してきましたが、そろそろ「経済」に関しても考えたほうが良い時期に差し掛かっているのかもしれません。

ただ、人と機械と経済の関係は議論が分かれるところで、誰も結論は出せていません(というか出せません)。現実を理解するには理論をこねくり回すよりも「実践」が近道ですので、今回は経済のもうひとつの可能性を探ってみようと思います。地球全体で機能する共有経済はまだフロンティアで、色々な工夫の余地がありそうですね。

 


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