今日はシリーズCのファイナンスとして43億円の資金調達が完了したリリースを出しました。企業としてはもう一段上のステージを目指そうと思います。このブログを更新することはもう滅多になくなりますので、これまで何を考えてやってきたかを改めてまとめておくことにしました。

外貨を稼ぐロールモデルを作る

2010年頃から「外貨を稼げなければ日本の企業は未来がない」と考えるようになっていました。日本の人口は減少を続けていて、国内の産業が縮小していくのは確実だからです。一方で、企業としては短期的に見れば国内にリソースを集中したほうが効率的ですし、東京の出来上がってるエコシステムに乗っかったほうが成功確率は高いのは間違いないです。

経営判断としてはそれが『正解』であること、経営者としてそれを求められていることも本当はよく理解していました。

ただ、同じレールに乗ればこれまでと同じ場所に辿り着くのは見えていたから、自分達で別の道をどうしてもこじ開けたかったんです。

誰かが成功事例を作らない限りは何も変わらないので、たとえ遠回りになったとしても外貨を稼げる日本企業のロールモデルを作ろう、というのが原点にありました。

2014年は世界8拠点のうち多くの拠点が軌道に乗り、売上の大半を海外から稼げる体制が作れました。収益化プラットフォームの導入アプリも累計12億ダウンロードを超え、世界1億人以上のアプリユーザを支えるインフラに成長できました。

同時に次の展開として「SPIKE」、研究領域として人工衛星を活用して「宇宙 ✕ IT」の模索を始め、ゼロイチと1→10の両方のプロセスを同時並行で進めてきた2年だった気がします。

事業を通して「日本」「アメリカ」という国家を軸にした視点から、過去や未来の時間軸も含めたもう少し広い視野で世の中を眺められるようになったのは心境の変化としてはありました。

とにかく「仕組み」が知りたかった

この事業を始めた時は特に深く考えずに「アジアNo.1」を目標に掲げていました。でも、それが具体的に見えてきた時にそれはある種の「逃げ」なんじゃないかと思うようになったんです。

1番かどうかを決められると言うことは、誰かがルールを作ってくれたからであり、1番を目指すということは「永遠の2番」だと考えるようになったんです。プレイヤーは逆立ちしてもルールそのものにはかなわないからです。

本当に考えなければいけないのは「もっと良い仕組みは作れないのか?」ということであり、他人が作った指標や枠組みの中で競争を繰り返すのはある種の思考停止のように感じていました。

ただ、よく考えたらこの世の中がどんな仕組みで動いているかなんて考えたこともありませんでした。ビジネスの事以外は何も知らない人間でした。

「決められた枠組みの中でどう競争するか?」ということから「もっと良い仕組みを作れないか?」という事に焦点が移ってきた時に初めて、現状の世の中がどのようなメカニズムで動いているかを知りたいと感じるようになったんです。ここで言うメカニズムとは時代も国も超えて適用される普遍的な法則性・規則性のことです。

そこで、事業を通してこういったメカニズムを理解することはできないかと思って、色々と試して見ることにしました。

出来るだけ多くの情報とそれをもとに事業を通して現実世界で仮説検証を繰り返す。そこから少しづつ輪郭が理解できるようになったんです。プロダクトを軌道に乗せる時にできることは高速でPDCAを回し続けることだけでした。そのノウハウを応用して現実世界の構造を理解してみようと思いました。

もし昔の研究者や哲学者が今の時代に生きていたとしたら、これほどリアルタイムにフィードバックが得られる現在のテクノロジーの数々に彼らは狂喜しただろうとよく思います。

情報として知ること、体験として知ること

昔は何かの情報に触れるたびに「そんなのは知ってる」と生意気にも思っていたんですが、現実の理解を進めていくうちに実は自分は「何も知らなかった」ということがよくわかりました。

情報として知るという事と、体験として知るという事はまったく別物だったからです。

情報が分断していた時代は脳の引き出しに情報を蓄えることに大変な価値がありました。今はネットを叩けば情報は無料で無限に手に入るので、誰でも学者のようなコメントをすることができます。情報をストックすることの価値はどんどん下がってきています。

それまでは本やネットなどで情報を吸収する事が「知る」という事だと思っていたんです。しかし、実際はその情報を引き出して現実に適用したり実社会で活用したりすることで始めて対象が深く理解できるようになりました。これが本当の「知る(識る)」という事なんだなぁと反省しました。

物理学者のアルバート・アインシュタインは、こんな言葉を残しています。

「情報は知識にあらず」「現実の理解は実験に始まり実験に終わる」

本田宗一郎も「人生は『見たり』『聞いたり』『試したり』の3つの知恵でまとまっているが、多くの人は『見たり』『聞いたり』ばかりで一番重要な『試したり』をほとんどしない。」と語っています。

彼らはずっと昔から「知る」という行為にはいくつものレイヤーが存在していることを自然と理解してたんだなぁと思いました。

複数のメカニズムが併存する世の中

昔SEOの事業をやっていて検索エンジンのアルゴリズムをリバース・エンジニアリングする時に、イレギュラーな結果のみを集めてその共通項をくくる、というやり方をしていました。同様に現実世界でも不自然な事象に取っ掛かりに仮説を立ててみることにしました。

例えば、「なぜ賢い人が必ずしも事業でうまくいかないのか?」や、リアルタイムではどう考えても合理的で見える判断が結果として最悪の決断であったり、その逆もしかり。利益によって掌を返す人も入れば、信念のために非合理的な決断をする人もいるし、絶好調で飛ぶ鳥も落とす勢いだった企業が、技術革新によって消滅したり、リアルタイムでは誰も予測できなかった事が、過去になると誰にでも予測可能なように感じられたりなど。

これらの違和感を感じる現象を集めていきその共通点をあぶりだします。そこから、いくつかの仮説を立てて、それをまったく関係ない領域に応用して見ると、ぼんやりと現実の構造が掴めてきました。

自分なりに考えてみて、現実はおおよそ3つの異なるメカニズムが併存し相互に影響を及ぼしており、それらが未来の方向性も決めている、という結論に行き着きました。もちろん実際はもっと複雑で無数の要素はあるのでしょうが、影響力の強い3つに絞りました。「お金」「感情」「テクノロジー」の3つです。

1)お金(経済)

3つの中で最も強力だと感じたのがお金(経済)です。アマゾンの奥地で自給自足をしている民族を除けば、地球上のほぼすべての人は市場経済の影響力から逃れることができないためです。現状では「経済=お金」と言っても良いでしょう。

私達は生活をするためにお金を稼ぎますし、人生の半分はそのための仕事をしています。お金は生きることと直結していますから影響力は絶大です。かつ、経済の構造は「自然界」とよく似ています。弱肉強食が大前提で、より強く大きいものがより弱く小さいものから奪うという構造にあります。

経済は戦争と言われますがそのまんまで、淘汰と食物連鎖を繰り返しているようです。

不思議にお金の仕組みは学校などでは教わることはありません。大学で経済学やMBAで経営のことを教わることはあっても、「お金」の本質そのものには触れられていないような気がします。学問的な賢さが実社会での生活力に直結しないのは、バスケと野球のようにそれらが別のルールで運営される競技なためなんだぁと納得できました。

2)感情(人間)

次に影響力の強いのが感情(共感・嫉妬・憎悪・愛情など)です。ある思想が全人類の共感を得ることは無いと思いますが、かならず一定の母集団を形成するのに役立ちます。その意味では経済の影響力よりは若干劣りますが、とっても強力な要素です。

人間は誰かを羨んだり嫉妬したりする反面、他人に共感したり自分を犠牲にしても何かに献身したりもする生き物だと思います。

いくらお金の性質を掴んで経済的な成功を収めても、他人の感情を無視しては長続きはしません。社会から共感を得られないような事業は、協力してくれる人もいなくなり、最終的には自壊してしまいます。

お金の影響力は確かに強いですが、人の感情を無視しては持続し続けることはできないというのがポイントです。

3)テクノロジー

最後はテクノロジーですが、これは対象とする人が最も少ない要素です。99.9%の人はテクノロジーのことを考えなくても問題なく生活できます。

ただ、テクノロジーは大きな変化のキッカケをいつでも作ってきました。自然や人間は時代によってそれほど変わるものではないんですが、テクノロジーだけは目まぐるしく変わっていく問題児です。

かつ、テクノロジーには一定の流れがありひとつの発明が次の発明を連鎖的に引き起こしていきます。まるで地層のように重なって作られています。例えば、昨今の人工知能の進歩はネットに接続されたデバイスとデータが溢れた事が引き金にありますし、コンピュータは半導体や電気などの複数の技術革新の結晶のような存在です。最近はこのテクノロジーの影響力が徐々に強まっています。

3つの中間地点が指す未来の方向性

頭の中のイメージを図に落としこんで見ると、異なるメカニズムで動く3つの要素が、それぞれ違うベクトルを指して進んでいます。それらの先端を結んだ三角形の中間が「現在」であり、その軌道が「未来」の方向性だと感じました。

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引っ張る力はお金が一番強く、次に人間の感情、最後がテクノロジーです。ただ、必ず3つの要素が揃っていないと現実ではうまく機能しないというのが特徴です。

例えば、他人の感情を無視して経済的な拡大だけを求めていって崩壊していく様を私達はこれまで何度も見てきました。

反対に、多くの人が共感してくれるようなプロジェクトもそこに関わる人達の生活を支えられるだけの経済的価値を生めなければ、長期的には人は離れていってしまいます。誰でもまず最低限の衣食住が必要なためです。

同様に、テクノロジーも、倫理を無視したものは実現可能であってもなかなか世にでることはないです。経済的・社会的価値が見つからなかった研究は予算が削減されてしまうことは日常茶飯事です。

これら3つの要素のメカニズムは、学校の科目で言えば体育と数学と美術ぐらい違うと感じます。数学・物理・生物ぐらいであれば机の上で左脳を使うという意味で共通点は多いですが、体育と数学と美術となると身体や脳の使う場所が違い過ぎます。

しかも、お金・感情・技術の3つの要素が連動してひとつの結果を作っているので厄介です。ひとつの要素ですらそこそこ複雑なのにそれが3つあり、さらに相互に依存した関係性があるわけなのでハードルはさらに上がります。

ゆえに、現実の複雑さは個体の理解力を常に上回ってしまいます。

アドバイザーになって頂いてる竹中平蔵さんとお話をしていた時に「世の中は連立方程式のようなものだ」とおっしゃっていましたが、この表現はとてもしっくりきました。ひとつの数字をイジると全体が影響を受けますし、複数の式が連動してひとつの答えが導く。自分よりもずっとはっきりとイメージができているのだろうと思いました。

損得で考えると損する

昨年ドリコム内藤さんがやっていたイベントに来ていた家入さんが「損得で考える人は損してる」という話をされていて、とても納得できたのを覚えています。

3つのベクトルの関係を見ると、お金のベクトルだけに添って経済的利益のみを追求していくと、その他の要素との関係性が見えなくなってしまい、結果的に様々なチャンスを気づかないうちに失っている、というのはよく理解できます。

例えば、ベンチャー企業への投資がうまい人は、PL/BS/CFなどの財務諸表や事業計画「以外」の部分への嗅覚が非常に優れています。それはその企業に関わる人達がどれだけ他人を惹きつけられるか、事業そのものが社会の共感を呼ぶか、活用されているテクノロジーが将来的にどうなるか、などなど。つまり、エクセルシートに載っていない事を読むことができる人達と言えます

現実でうまくいかないときは、これらの要素のうちどれかが欠けているときだと言えますが、どれか1つの要素が強烈すぎる場合は他の2つの穴を誰かが代わりに埋めてくれる時もあります。

私は『執着は損得を超える力がある』と思っています。一見矛盾しているように聞こえるのですが、執着(感情)は磁力のように他のリソース(お金・技術)を引き寄せて、足りていない要素を埋めてくれる場合がよくあったからです。過去を振り返って見れば、うまくいったことは実は3つの要素がしっかり噛み合っていた気がします。

できる事の少なさに対する絶望

リアルタイムでの仮説検証を繰り返していくうちに、これらは国や時代を選ばずに作用しているように感じました。状況によって微妙に倫理観やベクトルの強弱は違うのですが、大枠は変化していないような気がします。

輪郭がぼんやり見えてきた時に感じたのは、発見の喜びなどではなく、自分のできることの少なさに対する絶望でした個体としての自分ができることは「来たるべき未来」の実現を少し早めることだけだと感じたからです。

歴史的な変化を見るとそこにいた当事者が世界そのものを変えたように私達の目には映りますが、実際は彼らがやらなくても誰かがやったのは想像できます。その意味では彼らは「来たるべき未来」の実現を早めた、というほうが正確かなと思います。

それは政治(封建制 → 民主主義)においても、経済(物々交換 → 貨幣)においても、テクノロジー(石器 → コンピュータ)においても、より便利によりフェアに進化していった結果なので、これからもこの流れは続いていくでしょう。

Google、Amazon、Facebookなどの巨大IT企業の創業者達が考える未来像は驚くほど酷似しています。彼らは「いつ」それに取り掛かるのが良いかのタイミングの読み合いをしているとも言えます。社会・経済・技術・強み・資金などを総合的に勘案して、適切なタイミングで適切な事をする。

その意味では、イノベーターとはまったくゼロから新しいものを創造する人達のことを言うのではなく、少し先の未来を見通して先回りができる人達、と言ったほうが良いと思います。

つまり、誰が・いつ 実現するかは最後まで解らないのですが、何が起きるかはおおよその流れが決まっていて、人が変えるのではなく、未来のほうが変えられるのを待っている、というイメージです。適切な手順と必要な条件を揃えた人間がその成果を手にする。

国や時代も超えて適応される原理には、個人が好きに変えれるほどの自由度は無く、社会で生きる限りはその法則性から誰も逃れることができない、ということを感じました。

それを変えることができない自身の無力さにがっかりしたんだと思います。

魚は川の流れに逆らって泳ぐことはできますが、川の流れそのものを逆流させることはできないことに似ています。水が高いところから低いところに流れる性質は、地球では変わらないからです。

川の大きさに対して魚の自分がやれることの少なさを感じて、とても落ち込んだというのが正直な気持ちでした。

現実を直視しながら理想を持ち続けることの難しさ

なぜ人が社会を作ったかと言えば、自然の摂理がもたらす理不尽さや残酷さに対抗するためだったのかと思います。みんなで協力しあうことで生存確率を高めていく。火・文字・稲作などの初歩的なものからお金・蒸気・電気など高度なものまでテクノロジーを活用しながら、急激に人口を増やしていきます。

社会が拡大していくと王様や奴隷といった「身分」が生まれ、今度は社会自体が理不尽さや残酷さを人に押し付けるようになります。民主主義や資本主義が発達しても今度は身分がお金に変わっただけで、よく見ると構造は大きく変わってはいません。自然と同様に弱肉強食であり、どんな社会でも食物連鎖のような生態系が自ずと成り立ってしまいます。

1000年以上経って全く別の社会システムがもし生まれとしても、名前を変えてこの構造はどこかに宿り続ける気がしました。社会は少しづつ前進しているようで、同じ場所をぐるぐる回っているだけなのかもしれません。

映画監督の宮崎駿さんの発言で、こんな言葉を偶然見つけました。

理想を失わない現実主義者にならないといけないんです。理想のない現実主義者ならいくらでもいるんですよ。

仕組みの理解を続けた後に、『現実を直視しながら理想を持ち続ける』という事がいかに難しいかを改めて感じました。現実を見なければ理想を掲げるのは簡単です。社会の不満を罵り「悪者」を見つけては一方的に非難し、辛い現実を見て見ぬふりして夢だけを語っているだけで良いんです。

経済は性質が自然に近いですからとても残酷です。弱者はすぐに淘汰されてしまいますし、強者は滅多なことがない限り強者のままです。ビル・ゲイツも『人生は公平ではない、それに慣れよ』と言っていましたね。

現実の残酷さや不条理さを直視しながら、それでも「仕方ないんだ」とは言わない。そういう構造も知った上で「それでも別の可能性はあるはずだ」という理想を掲げることはとても覚悟がいることなんだなぁと感じました。

本当の仕事

構造が理解できていれば以前よりずっとビジネスを拡大させやすいのは間違いないですが、事業は自分にとっては完全な手段なので、ただ競争を繰り返していくことに価値は感じれなかったんです。『自分にできることは何もなさそうだなぁ』と落ち込んで年末を過ごしていたんですが、そもそも何のためにこんな事をやってきたのか?を思い出していました。

昔は意識していなかったんですが、事業や人生の選択をするときは必ず一番難しい道を選ぶようにしてきました。最初は自身の成長のためだと思っていました。でも、最近それは違うと気付いたんです。そもそも私は超めんどくさがりなんで矛盾した行動なんです。

実際は、過去の自分(のような人)に対して「事例」を示したかっただけでした。

先行事例が無いと人間は何かを信じるのがとても難しいんです。自分の未来を信じることができないことほど不幸なことは無いと思っています。

今までやってこれたのも、先行事例を作ってくれた人達が居てくれたからであって、どうしたら良いか解らない時もその「事例」こそが自分にとっての唯一の「希望」でした。

生まれたときからたくさんの可能性が用意されてる人もいるし、そうでも無い人もいます。ゲイツの言うように人生は公平では無いですし、現実の残酷さは否定できないんです。

それでも過去の自分のような人には「人生はこんなものだ、しかたないんだ」と言って欲しくなかったから、できるだけ難しい道を選んで「不可能なことなんてあり得ないし、人間は何者にだってなれるんだ」という事を証明したかったんだと思います。

きっと誰かに貰ったものを返したかっただけなんだろうと妙に納得できました。

それを思い出して、やっぱり『理想』は絶対に捨ててはいけないんだとまた思えるようになりました。

外から見たら「なんでそんなことが気になるの?なぜそんなことしてるの?」と不思議がられるけど、「それをやりたいと思ってるし、自分がやらなければいけないとも思ってる」と言えるようなこと。そういうことが、賃金を得るためでもなく誰に言われるわけでもない、その人の本当の『仕事』なんだと思います。

もし何かに疑問を思ったり、憤ったりしたら、その時点でそれを解決することが人生の『仕事』になり得るんだと思います。

正直に言うと、私は何かの義務や責任はずっと避けてきたし、いつでも自由でフラフラしていたいと思っていました。話すのはうまくないし、空気も読めない、周りにはいつも迷惑ばかりかけています。本当はリーダーなんてガラではないと今でも思っています。

それでも、今は本当の『仕事』に集中しようと思えたし、何かを『背負う』という覚悟ができたのは一番の収穫でした。

一周回ってまた同じ場所に戻ってきたような、そんな気分です。

人生の賞味期限

最後に、人生には『賞味期限』のようなものがあるとよく考えています。

私は『挑戦はいつでも出来る』というのは事実でないと思ってます。人の持つ「エネルギー量」は一生を通して同じではないからです。個体差は確かにありますが、エネルギー量は必ず時間と共に減っていくし、お金のように貯蓄できる性質のものでもないです。「生きる」ということはこのエネルギーを消耗していくプロセスと言えます。

人を巻き込んだり、ひとつの事に集中するには体力や気力も合わせたエネルギーが必要です。『( 知識 + 経験 )✕  エネルギー量  =  成果  』と言っても過言ではありません。

知識や経験があっても、エネルギーが枯渇してしまっていてはもう何かに挑戦しようとは思えなくなってしまいます。この「何かに挑戦できるエネルギーがまだ残ってる期間」を「人生の賞味期限」と私は呼んでいます。

十分な知識と経験が揃ってからやろうと考える人もいるかもしれませんが、エネルギー量は年齢とともに減少していくとすれば、いつ始めても実は成果は変わらないのかもしれません。

準備万全ではなくても、きっとエネルギーが充実していてる間にやっておくべきなんだと思います。私も28歳になったので、これから人生を賭けてひと勝負しようと思います。やらずに「時間切れ」はどうしても避けたいから。

学校もろくに行かずに商売を始めて毎日をやりくりするのが精一杯で、自分のことなんて深く考える機会がなかったので、ここ数年はとても有意義な時間でした。

永遠と続く川の流れのような「仕組み」そのものを変える事ができるかは分かりませんが、今はとにかく自分の「仕事」をやり切ろうと思います。

人生の賞味期限が切れるまで。